2010年9月22日水曜日

涙の理由~重松清と茂木健一郎の対談

小説家、重松清と茂木健一郎の対談
「涙の理由」

涙はなぜ流すのか、
どういう時に流すのか
自分の涙と他人の涙は同じか

論点の一つに、映画のCMによくある「泣ける!」という表現。
泣けるというのは能力、才能、可能性なのであり、「泣いた」と表現しないのはなぜか、と疑問を投げかけている。
みんなが泣くような映画であっても、その涙の理由は様々で、その場面を自分の経験と重ねて泣く人もいれば、ただ単にその場面がかわいそうだからってだけで泣いてしまう人もいる。
普段後者で涙を流す人も、他の映画では前者かもしれない。
涙の種類がその人によってさまざまなのに、なぜ一概に「泣ける」という可能性を押しつけるのだろうか。
そして、そういう映画を見に行く人たちは、わざわざお金を払って涙を流したいから行くのだろうか。目的が「涙」だって事なのだろうか。
「感動した」「悲しい」などと言葉に出せないような涙もある。
二人があげていたのは、西武の清原が、ジャイアンツに勝つ場面。ジャイアンツに行きたかったのに同じチームであり親友の桑田が選ばれ、自分は行く事ができなかった。その清原が、9回守り、2アウトの時に涙を見せた。
スポーツに必死になった経験がある人にはわかると思う。この涙の理由。でも、簡単に言葉には表せない。
2人はいう。色んな事が全て奇跡的にかちっとはまった時にこのような歴史に残るような重い涙が生まれる。
その涙と、映画で主人公がかわいそうっていう涙とは種類が違う。
別にどっちが良くてどっちが悪いって話ではない。ただ、前者は、重い。

私は映画でしょっちゅう泣くのだけど、いわゆるお涙ちょうだいもんには嫌気がさす。そう思わせた時点で駄作じゃないかと思うんだよね。
安易に余命がついた物語ばかり描いたりさ。ね、かわいそうでしょっていう。
生きるってのはそんな浅はかなものじゃないし、余命なんていうものは客を泣かせる為だけに使用するべきではない。それでも必死に生きている姿を描きたい!なんて、バカな理由をつけるけれど、じゃあ、ドキュメントでそれをやった場合と比較してみたらわかる。

きれいごと。

って感じ。

それはさておき、私はジュゼッペ・トルナトーレ監督が好きで、あの人の作る映画の空気感に弱い。
「New Cinema Paradise」で私は数回泣いてしまうのだが、特に、映写機を回すお爺さんが、外にあふれた客の為に映写機を外に向け、向いのビルの壁に映すところに泣く。
映像が綺麗。そして、その民衆とお爺さんの空気感。お爺さんのサービス。そういうものが全て暖かくて、ジーン・・とくる。あれはほんと、いい映画だ。

私の話はいいとして、この本はオススメです。
泣くという行為は他の動物には見られないもの。それはなぜだろうか?という事なども、この本の中で話しあっています。

2 件のコメント:

  1. 私は最近トトロで泣いてしまいます。

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  2. そうね。あれは優しさとか、子供の頃のノスタルジーなどでやられるね。

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