2012年2月11日土曜日

たらの芽

福島の知り合いがたらの芽をくれました。
プクプクしてて、とてもかわいくて、もう山菜が出る頃なのかあなんて季節を感じていました。
その人は
「もし(放射線が)気になるなら捨ててね」
と言いました。
そう言わなきゃならない気持ちが、とても悲しくて。
私も風評被害のひどい地域にいますから、その気持ち、痛いほどわかります。
自分の土地で作ったものを、何も言わずに友達にあげられたら、すごく幸せだと思うんです。
でも、必ず言わなきゃならない。
「気になるなら捨てて」

もちろん私は気になりません。
被災地より遠い地域にいる人ほど、気にするのだと思います。
しかも自分で調べもせず。
私は、被害のある地域ほどちゃんと調べている、農家が自発的に調べているって知っているから、何にも怖くありません。
こんなかわいいプクプクしたタラの芽、もらって嬉しい以外に何がありますか?

この前テレビで、茨城の野菜が東京のあるスーパーでは売られず、お客さんにインタビューしていました。
その婦人は、
「農家には悪いけど、やっぱり(放射線がないって)保障されないものだから・・・」
「県では調べて出してますよ」
「でもそこまで自分では調べないじゃない?」

ここがすごく大きな問題だと思うんです。
これって差別じゃないかと。
調べないで怖いもなにもないじゃないかと思うのです。
これならまだ、
「HP見たけど、やっぱりそのデータが信じられなくて」
と言われた方がまだよかった。。。
何を持ってあなたは信じるのですか?と言いたい気はするけれど、
自分で調べないけど保障されないからって言う人よりも、
そっちのがずっと良かった。

こんなかわいいタラの芽見て、
放射線って一体なんなんだ?って思って、
悲しくなりました。

別に東電を責めようって事じゃないです。
電気を送ってくれてるのだから。
そこに感謝は忘れてはいけないと思うのです。

だけど、そこまで電気を必要としてしまった人類の生き方を、
考え直すべきなのかと思いつつ、
自分の土地でできたものを、すまなそうに一言つけなければ渡せないこの時を、
とても悲しく思いました。

自分にできる事ってなんだろうか?

3 件のコメント:

  1. その方はどんな気持ちで「気になるなら捨てて」とおっしゃったのでしょうね。
    胸が痛みます。

    夫ともよく話すのですが、放射能被害によって誰かが命を落とす確率よりも、
    風評被害を苦に誰かが命を落とす人の確率のほうが圧倒的に高いんじゃないかと。
    だったら同じ国民として、より高い確率のリスクに対して支援するのが筋かと思うんです。
    私たちが直接関わることのできる支援は、積極的に被災地の農産品を買うことですよね。

    「がんばろう日本」とか「東北がんばれ」とか言っているわりには、
    被災地の瓦礫受け入れに反発したり農産品を拒否する姿を目にすると、
    大きな矛盾と疑問を感じます。
    支援って、ある意味で他人のリスクを自分も請け負うことなはずなのに。
    「がんばれ」という声援もないよりはいいのだけれど、それは支援じゃない。

    ちなみに最近では、感情論優位な反原発集会やデモなどにも、違和感を感じてしまいます。

    話がだいぶ逸れてしまいましたが、
    一時的な感情や周りの勢いに流されて行動することがどんなに愚かに見えるか、
    身につまされて感じるこの頃です。

    返信削除
  2. 上のコメントでもし誤解があったらいたらいけないと思い再コメントなのですが、
    私も農作物の産地は気にしません。福島産も関東産も。
    流通する前に、農家の方々が独自に様々な努力や工夫をなさっていることを知ったからです。

    「リスクを負う」という表現は理屈を説明するための言い回しで、
    「福島の農産品にリスクがある」という意味では全くないです、念のため・・・
    (自分で読み返して「あれ?」っと思ってしまったので)
    まぎらわしい書き方に見えてしまったらすみません(>_<)

    プクプクのたらの芽、天ぷらにしたら絶品でしょうね!

    返信削除
  3. コメントありがとうございます。
    まっっったく同感です。
    瓦礫の受け入れで文句を言う市民の姿を、瓦礫が出てしまった土地の人に見て欲しくないから、放送もしてほしくなかったり思います。
    石原都知事はあんまり好きではないですがw受け入れを批判があっても断固として推進したことはとても評価できると思います。
    被災地以外で実際に受け入れ決断したのはいまだこの東京都だけだと言います。
    これで一体何が絆なんでしょうね。反対している人はどれだけ足を運んで瓦礫の放射線の事や、それに関する被害を調べたのでしょうね。

    「気になるなら捨てて」の気持ち、すごくよくわかるんです。
    自分の気持ちをガードするための言葉だったりもするんです。
    表面ではありがとうと言って受け取るだろうけど、実は心の中では放射線におののいて捨ててしまいたいのではないか?と思ってしまうんです。
    そこを無理してほしくないから、
    「気になるなら捨てて」
    って言葉を足さなければと思ってしまうんです。
    ひょっとしたらなかには、じゃあくれなきゃいいじゃないって思う人もいるかもしれないけど、自分の土地には頑張ってほしいし、おいしいものだってわかってるから食べてほしいし、そういう気持ちが常に裏腹なんですよね。
    お米から放射線が見つかったりもしていますが、なぜそれが流通前にちゃんとわかる事が多いのか、そこに注目してほしいのに、って歯がゆい思いをしています。
    「リスクを負う」のはよくわかりますよ。痛み分けですよね。ガンバレとかそんな言葉ばっかり言うのに、痛み分けはしないんです。疑心暗鬼で拒絶して、何が「頑張れ」なのか、よくわかりませんね。

    返信削除