「悩むのはいつも善人ばかりだ」
~イティハーサより~
最近のアメリカの武力行使のニュースを見て、平和ってなんだろうと考える事が多い。
武力によってもしシリアに平和がもたらされたとしても、それは生き残っている人のみの
平和であり、そこで亡くなった人達の平和は無視されることとなる。
平和には少しの犠牲は必要だとするならば、犠牲になってしまった人の人生はなんだったのだろうか。
その人にとっては、たった一つの命であり、それが他の人の為に犠牲になるという考えは何かがおかしい。人を、民衆として十把一絡げに考えれば、少しの犠牲は必要だという考えは成り立つのだろうけど、犠牲になる人の命が亡くなる事と、他の人達の命が亡くなる事は、同じではないかと思うのだけれど。
今ここで攻撃しないと、もっと多くの犠牲者が出る事になるだろうとの事なんだろうけどね。
それだとしても、まだ確実な調査や対話が必要なのではないかと。
昔ここにも書いたけれど、マザーテレサの、
「(平和を求めるなら)家に帰って家族を愛しなさい」という言葉を思い出す。
この言葉がすごいのは、目の前で死にゆく人を何人も見ながら、神を信じる事が難しくなる状況の中、事実本当に神は存在するのかに疑問や葛藤と戦い続けた上での言葉であるという事だと思う。
マザーは、死を待つ人の家を作り、路上で死を待つだけの人をそこに運び、死を看取る活動を続けてきた。路上で一人で死を待つ人に、マザーは
「あなたは必要な人なのですよ」
と伝え、死に瀕した人達は、マザー達に
「ありがとう」
と言って亡くなっていったという。
人と人との繋がりは、個々での繋がりであって、決して大勢で数えるものではない。
犠牲者が少なかったからと言って、喜べるものでもない。
あまりに時期尚早にみえる武力行使に、正直がっかりしている。
そこには原油の関係、イスラエルとの関係、ロシアとの関係が複雑に入り混じっていると言われている。でも、今日見たニュースの、アメリカの議員の言葉、
「武力介入が実行されなければアメリカの信頼が損なわれる」
これこそ本末転倒というものではないのだろうか。
昔の戦みたいに、戦争すると決めた人が戦地に赴けばいいのにね。
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